昭和45年12月2日 夜の御理解 ★

 御神訓一、不浄のある時は先に断りおいて 願いあることを頼めよ。
 
 

だんだん信心をさせて頂いておりましても、ほんとに朝の清々しい雰囲気の中に信心参りをさしてもらう、何とはなしに弾んだ生き生きとした心で、この願い、または祈り、えー詫びる、御礼を申し上げるといったような、ほんとに有り難い御祈念が出来るんですけれども。
 まあ日、一日中、まあ言うならば、なら久富さんあたりのように、もう一日中一生懸命だけど農家の御用に従事される。もうお風呂んどん入って、テレビどももし見よったらやれやれで、もう夜の御祈念なんか御参り出来んごときつうあんなさろうと思いますですね。なら、皆さんの場合でもそうですよね。久保山さんあたりのごと、ありゃもう三回も御参りになるから、やはりくたくたちゅうような時もあろうかと思いますよね。
 けれども私はあの、今日それをね、風呂ん中であの、頂かせて頂いたことなんですけれども、あの、「不浄のある時には先に断わりおいて願うある事を頼めよ」と仰る、あのみ教えがありますね、それはあの、例えば勿論生き生きした心は、弾んだ心は神様に通います。けれども、くたくたに疲れ果てた心はね、神様には通わない。ところがね、例えばなら熊谷さんあたりのように、三回も御参りして、たまにはもう今日御無礼しようかと、くたくた疲れた。久富さんあたりのように一日中百姓の御用をさしてもろうて、もうほんに早う、今夜だん寝ろうごたるというような時にです、やはりなら疲れながら参って見えるでしょうが。そういう時にですね、あの、いわゆる心が不浄の心ですね、成就しない心です。不浄とは。だからそういう時に、断わりおいて願いがある事を頼めと仰ると。ここんところが素晴らしい。どんなにくたくた疲れとってもええ、どんなに生き生きしたものがなくってもいい、今日はもう神様が、もうくたくたでございます、どうぞ不浄の心、いわゆる成就しないといったような心の状態でございますけれども、断わりおいて願いあることを頼めと仰るから、そこんところ断わりおいて願うところに成就になっていくおかげ。ね。
 例えば、病人なんか、もう願う力もないごとある。願う生き生きした心も無い。きつい。苦しい。けれども、その事を、断わりおいて願う。ね、例えばなら、そげなかもう、眠うして堪えんごとふうしとんなはる。たから、そげな心で神様に通うはずはない。けれども、今日は、もう眠いして、こげんきつうございます。だからそら不浄の心なんですよ。ね。不浄。不浄とは成就しない。眠ら半分で願うたっちゃ神様は聞いちゃくださらん。けれどもこんなに、言わば今日はつかれておりますと、と言うて断わりおいて願うところに成就する。してみるとその、くたくたの信心、修行ということは大変尊いことになるですね。もう眠うしてから、もう何を御祈念しちょるちゃ分からんごたる。だから、そこん時にはですね、断わりおいて願えと仰る。
 私は、金光様の御信心などね、素晴らしいという事は様々に感じますけれども。なるほど、朝のそれこそ清々しい生き生きとした心で神様に通う、これも有り難い。けれども、一日の修行を終わらして頂いて、もうくたくたと、いうような心。なら、そういう心では神様には通わん。ね。通わんけれども、それを、いわゆるそういう不浄の心を、断りを、余裕があればいいのです、ですから。ね。お許し下さい、今日はこんな眠うございます。今日も三回お参りしましたが、三回目にはもうくたくたでございますと。今日は一日家でもみ擂りを致しまして、もう疲れ果てましたけれども、やはり、ちょっとこうしてお参りさしてもらわなければ心が済みません。どうぞそういう不浄の心はお許しを頂いて、生き生きとした心と同然なような。ね。心で御祈念をしておると同じように神様が、それを取り受けて下さる。断りおいて願いある事を頼めということはそういう事だと思う。
 まあ、今晩私頂きます事は、「大名信心と乞食信心★」という事を頂いた。ね。ですからなら、大名ちゅうのはです、もう神様こげんきつか事は御承知じゃけん御無礼しようちゅうごたる、信心が大名信心。ね。頼む時だけお参りするというのが、自分の気分のよか時だけ参るとは、こら大名信心。いかにもよかごたる。信心だけはだから、あー、御無礼。そういう信心は「乞食信心」です。自分が貰わにゃん時だけ参って、気分のよか時だけ参って来るのですから。ね。けれどもほんとに、いうならへとへとというような信心こそです、これはもういよいよ徳積みの信心。だからこういう信心が「大名信心」です。ね。
 今、あの、久富さんが御祈念前に御届けされますように、主人と二人で佐賀行きをしております。そして途中でですね、その、さっさと二人で「ひ石」を取りよるところを頂とる。佐賀方面にあるのひ石がありますよね。だから佐賀ということは、合楽のことでしょうね。佐は人べんに左。(賀)よろこびと書いてある。合楽。もう夫婦で一生懸命佐賀行きをなさっておられる。ひ石とは、こう、じがじがする。言うなら苦しい。中には、ああゆう良い実が入っておるといったような。ね。苦しいけれども有り難いといったような信心をさして頂いておる。そういう信心が、私は大名信心だと思うんですね。ね。
 ですから私共がね、ほんとにその、沢山な信心を頂いておる時には、そげんまでせんでんとか、ね。うん。らくーな(楽)な信心をしておられる方達があります。それは、ただ言うならば、御願いのある時に御参りすりゃ、それでおかげ頂くいうだけの信心なら、そういう信心が、私は乞食信心だと思うですね。如何にも形は大らかで大名のごとしとるばってん、実は反対。信心はそれこそ乞食のごたる信心さして頂きよるごたるけれども、それが徳積みの信心である場合、おかげ。もうへとへと。ね。だからそのヘトヘトの心は神様には通わん。不浄の心。けれども、それを断わりおいて頼みある事を願うという信心になってくる時です。そのへとへとという修行こそが受けとられる信心だということにもなってくるわけなんですよね。
 私は、もうほんとに私共でもあります、そういうし、もうほんとへとへとん時ありますけれどもね。そこんところを不浄のある時には先に断りおいて願いある事を頼めと仰るがそういうなことだと思うですね。
 皆さんの場合なんかそう。今晩の御理解がピッタリくる人ばっかりだろうと思うです。みんな日に何回と御参り。もうほんにごげん眠り半分のごとして参ったっちゃ、神様聞きゃござりめえと思うごたる。だからそれだけじゃ、やっぱいかん。だからそういう心の時には、断りおいてということが要る。願えある事を頼めと。私はこの御理解をね、今晩ほど、これは風呂ん中で頂いたっです。もう私、風呂ん中で眠るごつきつかったです。そしてそのこと頂くとですよ。ね。だからほんとに、例えば神様がきつかことは御承知なんですよ、言わば。ね。だからなら、そういう心では、そばってん神様には通わんですね。朝参りの、あの生き生きとした心のごたるふうには通わんです。ばってんそういう心の時には、それを、その事を断りおいて頼むという事。ね。不浄のある時には断りおいて願いある事を頼めと仰っているということはそういう事だと思う。
 なんか一段この御理解を有り難い方に今晩頂きますね。  どうぞ。
                           入力者  末永 清和